「死」からの学び

おばあちゃんが肉体を離れてから早3週間近くになる。

人間というのは不思議なもので、死を迎えると、その「一瞬」を境にしてあたたかな柔らかい体から冷たく硬い体になってしまう。何も外見は変わることなく、ただただ、同じ体がそこに横たわり、息もなく、動かず、硬く、冷たくなっていく。

今時は高度な技術によりその体の腐敗をしばらく遅らせる処理ができるらしく、おばあちゃんもお葬式が終わるまでの5日間、まるで生きて眠っているかのようだった。生前と変わらないかのようにそこに横たわっていながらも、おばあちゃんは明らかに「そこ」にはいない。ものすごく不思議に思えて仕方がない。

でも、「そこ」にはいなくても、「この辺り」にいることは感じられる。

 

亡くなった方の魂は体から抜け、みんなが遺体を見て嘆いているのを「上」から見ていて、「私はここにいるのよ!」と叫んでいるのだけど誰も気づいてくれなくて寂しい思いをしている、という話を聞いたことがある。おばあちゃんの魂も、かつての威勢いい男勝りの元気な声で「下」にいる私たちに話しかけたり、久しぶりに集まった息子たちに喝を入れたりしているように感じた。私も「この辺り」にいるだろうおばあちゃんに向かって話をした。

 

 

火葬が終わり、おばあちゃんが灰とぼろぼろの骨になって帰ってきたとき、おばあちゃんがもう「この辺り」ではなく、急にふっと遠くに行ってしまった気がした。おばあちゃんが自分の今生の「死」を受け容れて、昇華したのかもしれないと思った。

 

でも一体どこへ?

 

チベット仏教では、49日以内に新たな肉体を見つけて生まれ変わると言われている。うちの菩提寺である曹洞宗は「無記」という立場をとっているよう。人が死後存在しようとしまいと、人は生まれ老い苦しむのだから、無用な論争はせず、苦しみからの解放という目的を見失わないようそれについて言及しないということ。

 

私は、生まれ変わると思った方が、いろんなことの説明がつくのではないかと思う。

 

初めてなのに、なぜかもう昔から深く知っているような人によく出逢ったり、全く無垢な子どもや人生を真面目に人のために生きてきた人たちに限って不幸な目にあったり、その逆もしかり。宇宙の法則=カルマ(因果)の法則で、自分のしたことが自分に返ってくるとしたら、今生だけではどうしても説明しきれないことがたくさんありすぎる。

 

今自分が持っている肉体、今置かれている環境、出逢う人、起こること、すべてが自分自身のしてきたことの結果であるとしたら、誰かを責めることなく、争うことなく、日々、瞬間瞬間の自分の思考や言動に責任を持つことができる。

 

だから、未来の自分がどうなるかは、すべて自分次第!

未来は今、この瞬間の積み重ねに過ぎないから

結局、今、ここ、この瞬間をどう生きるかということ。それしかない!

 

そう思うと結局「無記」ということか。。。

 

 

7年前にヨーガに出会い精神的、霊的なことに意識が急速に向かい始めてからの初めての身内の「死」は、本当に深い深い学びでした。

そしておばあちゃんの旅立ちは、いろんなモヤモヤを一気に解消させてくれるような、悲しみというよりは私たち身内に大きな浄化と歓びを与えてくれた、力強く優しいおばあちゃんらしいものでした。

 

魂の旅をしているおばあちゃんに、心から感謝の気持ちを送りたいです。

本当にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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